大栗川通信

元記者でマーケターになった中年男「サパロメ」が、本や映画(アニメ、テレビ)や家電のレビュー、育児やブログ運営、ダイエットなどについて雑記をつづります

10年続けた記者を辞めます

今月31日を最後に、10年続けた記者の仕事を辞めることになりました。今まで未熟な記者の自分を支えてくれたすべての人たちに、感謝します。

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ゲームや映画の物書きになりたかったけれど、夢叶わず、仕方なく書く仕事であれば何でもいいと、気がついたら記者になっていたというのが、記者としての歩みの始まりだった。

世の中の動向、特に、政治経済に全く興味がなかったため、最初はすべてにおいて苦労した。覚えなければならないことだらけの一方で、弱小媒体のため取材先には相手にされない。書いた記事が本当に読者のためになっているのかも分からなかった。

何度も失敗を繰り返し、周囲に迷惑をかけながらも、ようやく業界の人たちとまともに話ができるようになり、流通、情報技術、社会保障の世界を取材し、記事にしてきた。記者としてのレベルは低いが、それなりの仕事はしてきたつもりだ。正直、自分にしては上出来だったと思っている。

仕方なくなった記者という仕事に今は、誇りすら感じる。記者になって、本当に良かった。

一方、記者という仕事に限界も感じていた。記者は取材する対象の専門家ではないことがほとんどで、その対象の事情をよく知る当事者でもない。いつだって、無知な部外者だ。

そんな無知な部外者が、さまざまな手法を用いていかに当事者の本音に迫れるかが記者の醍醐味であり、当事者や専門家ではないからこそ、一定の距離をおいてシンプルな問題提起を打ち出せることが強みでもあった。

それがインターネットの普及に伴い、専門家や当事者たちが発言する場が増え、プロの記者による記事と、ブログやツイッターの情報との違いは曖昧になりつつあり、溢れる情報の中から必要な情報を取捨選択するツールも充実してきた。無知な部外者に任されてきた仕事は、無数の当事者と部外者をつなぐ巨大なネットワークの波に埋れてしまいそうになっている。

記者の存在意義は何なのか、今以上に問われている時代はないと思う。少なくとも、この問いに誰もが納得する答えを、自分は持っていない。記者の存在意義は、“情報の裏を取る”ことや中立公正な立場での分析などとはいわれているが、記者を介さずに確かな一次情報が至るところで流通し、多角的な分析が無数に溢れる時代は、もうそこまできている。

記者はあと数日で辞めることになるが、4月からは、記者を抱えるメディアを運営する企業の経営企画室の社員として、この問いにしっかりと向き合っていこうと思う。ちなみに、転職するわけではない。部署異動というやつだ。

おぼろげながら見えている方向性は、記者としての小さな成功の中にある。これまでに執筆して話題になった記事は、どれも「お前らしい記事だな」といわれるものばかりだった。情報が溢れる時代の中で、こうした個性やキャラクターを発掘し、育て、それらを繋げ、進化させていく何かとの関係性の中に、今後のメディアや記者のあるべき姿があるのだと思う。

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